投函者(三井千絵)

日本では、2014年からコーポレートガバナンス・コード(以下、CGコード)の導入の議論が始まった。その後わずか1年で導入に至ったが、この間余り議論されなかったことで、今では世界各国が相次いで対応に向かっている取り組みがある。企業開示の信頼性を向上させるため、監査報告書を強化する取り組みだ。

日本がモデルのひとつとした英国のCGコードでは、ガバナンス向上のために企業開示・監査の強化に関する議論も行われてきた。その結果2013年から監査報告書が劇的に変化した。新しい監査報告書は”Extended Auditor’s Report”(日本では「長文型監査報告書」)と呼ばれ、監査人が監査の過程で重視した点や重要な情報が投資家に共有される。英国の投資家からは「企業とのエンゲージメントで活用できるようになった」と評価が高い。またレポートに記載される情報は監査委員会と監査人の間で事前に議論をする必要がある。この議論がコーポレートガバナンスの強化につながることも意図されている。

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 1.英国での導入経緯、CGコードの議論からの発祥 

 

CGコードが導入された年に、日本では大きな会計不正が発覚した。ガバナンスの改善に最も重要な要素の一つとして、経営者が自社の財務状況を正確に把握し、リスクを管理し、それを投資家等に明確に説明する能力の向上があげられるだろう。長文型監査報告書が、不正会計の要因となりやすい“予期できなかった”減収、資産価値の減少の発生を防止したり、発生した場合でも、経営者の対処・説明力を向上させる手段となるなら、日本でも取り組むべきではないだろうか。

日本のCGコードは、英国のコードを中心にOECDやEU諸国のコードを参照して策定されたが、英国がコードにあわせて実施した、監査や監査報告書の向上に向けた取り組みは、これまであまり議論に上っていなかった。しかし、2008年の金融危機の後にコードの再編に取り組んだ英国ではこの部分は重視されたようだ。2010年にCGコード、スチュワードシップ・コードがFRC(Financial Reporting Council 英国で企業開示等を管轄するレギュレーター)で再編された翌年に、“Effective Company Stewardship – Enhancing Corporate Reporting and Audit”というDiscussion Paperが発行された。これはガバナンスの向上のためには企業開示(年次報告書)や監査はどのように改善されるべきか、取締役会や監査委員会の役割についての議論の始まりとなった。その結果、年次報告書は”Fair, Balanced and Understandable”(公平で、バランスがとれていて理解可能)であるものにすること、という要件が追加された。そして年次報告書に、企業のビジネスモデルやリスク、内部統制などの記載が必須となったが、それだけでなく“年次報告書を投資家が信頼できるものにする”ために、監査報告書の強化が求められた。これらは、同じようなコードを導入した日本でも重要なのではないだろうか。

監査報告書の強化については、Discussion Paperが発行された後数年間、投資家、企業、監査法人など関係者が集まり、どのような記載を充実させるか議論が行われた。ここでは特に投資家が何を必要としているかが重視された。当時この議論に参加していた何人かの投資家は「FRCによる、ここ数年間で最も優れた仕事だ」、「FRCは投資家のニーズを徹底して聞いた。そしてコンセンサスを作っていった」と振り返る。

議論が始まった当初は、それぞれが懸念を抱いていたそうだ。例えば、投資家は詳細に記載することによって監査意見が逆に明瞭さを欠くことになるのではないか、という懸念をもっていた。また企業は、監査報告書に、本体の年次報告書で開示されていないことが含まれ”一次情報”になってしまうのではないか、といった事を懸念していた。しかし後者については、監査人は監査報告書で取り上げる内容を事前に監査委員会とよく議論し、監査報告書の記載内容の根拠となる企業の状況は、企業が作成した年次報告書に記載された情報を参照して説明することとなった。従ってこのプロセスを踏んでいれば、監査報告書が一次情報になることはない。監査報告書に記載される情報は、必ず企業側も開示しなければならなくなり、企業開示の向上にも貢献するのではないかと言われている。

 

2.投資家が求める情報とは? マテリアリティ、リスクと監査スコープ

 

当時英国では、投資家が求めた監査報告書の記載項目は、マテリアリティの基準(いくら以上の間違いであれば、投資家の意思決定に影響があるとして監査意見に反映させるか)、監査人が考える主要なリスク(Key Audit Matters : KAM)、監査のスコープ(例えば監査のリソースをどのように割り当てたか、支店や取引先等のカバレッジなど)であった。KAMは通常、数ある課題の中から4,5項目を選択し記載する。その選択基準は、監査人が監査をしている時“そこに問題が生じないか最も心配した点”、または“監査委員会と最も議論した点”といった事項が選択される。英国での実際の開示内容を見てみると、その多くは収益の認識、税効果会計などの見積もり、減損処理の判断などであった。監査のスコープについては、リスクがある部分に適切にリソースが割り当てられているか理解することができると投資家に好評だ。

現在、英国の投資家に好評な記載の事例をあげると、例えばロールスロイスの監査報告書では、各リスクを定量化し、前年度からの変化をグラフで示している。つまりどのようなリスクが去年より高まったかをみることができる。またHSBCの監査報告書には、監査委員会のディスカッションが詳しく記載されている(とはいえ、多くの企業では前述のロールスロイスやHSBCのような監査報告書ではなく、監査基準が求める必要最低限の事項しか記載されていないケースも多い)。

英国では、監査報告書が新しくなって2年目には、各監査法人と投資家でラウンドテーブルを行うようになったそうだ。投資家側は、“監査法人間の良い意味での競争”が起こり、報告書の質が高まることを期待している。例えば、ロンドンに拠点をおくグローバルの資産運用会社のガバナンス担当者は、最初の年は監査人と投資家でマテリアリティの数値として期待するものの認識がずれていることが分かった、という。「最初の年は10%程度に設定しているところが多かった。我々はラウンドテーブル等を通して意見交換し、2年目は自然と平均が5%に近付き、より詳細化した」と語った。

 

3.日本での導入に向けた可能性と課題

 

このような新しい監査報告書について日本の投資家はどのように考えるだろうか。今年の秋、「長文型監査報告書」への興味について、日本の投資家等情報利用者に簡単なアンケートを行ったところ、みな既に名前は聞いたことがあり関心も高かった。英国のケースを事前に聞いたことがあった、ある大手銀行の財務データの管理責任者は「FRCの調査によると資産やのれんの減損についてKAMとして多く記載されたと聞き、興味深い」と回答した。日本でもすでにIFRS適用企業が100社を超え、IFRSはマネジメントが判断できる箇所が日本基準より多いため、IFRS財務諸表の評価に苦労しているためだ。また日本企業もIFRS開示に慣れておらず、マネジメントの判断した部分の説明が、昨今の非財務情報を拡充するトレンドの中で十分といえないケースもあるようだ。長文型監査報告書の導入は日本のIFRS開示の質的向上に役立つのではないだろうか。

現在長文型監査報告書は国際監査基準に取り入れられ、世界各国で順次導入されていった。EU、オーストラリアは2017年以降の決算期から導入予定で、米国やカナダでは基準への取り込みを検討中、中国でも導入時期の検討が始まった。国際監査基準は英国とは少し異なり、マテリアリティの開示などは要求されていない。監査基準は、国際監査基準と自国の法令を合わせて自国基準にしている国が多く、各国ごとに多少バリエーションがある。日本も国際監査基準を参照しており、遅かれ早かれ対応は必要となる。しかし幾つか課題がある。

ひとつはJ-GAAPの問題だ。IFRS、USーGAAPではマネジメントが判断した部分について根拠を開示することが基準で求められている。しかしJ-GAAPにはそのような開示基準がないため(全てではないが)、J-GAAPを修正するか、なんらかの開示強化の指針が必要となるだろう。次に監査役等と監査人とのディスカッションを活性化させられるか(期末から株主総会までの期間が海外に比べて短い日本の場合、その時間がとれるかどうか)という課題がある。しかし、市場の信頼性の向上という意味でも、これらの課題を解決し早期の導入への道筋をもつことは必要と言える。

日本では「長文型監査報告書」と訳されたが、英国の名前の直訳は「拡張型」だ。長いものである必要は必ずしもない。たとえば英国の投資家が有用と指摘した「マテリアリティ」だけでも、企業の財務諸表の見え方はだいぶ変わるのではないだろうか。またアウトプットのレポートそのものではなく、企業の内部で監査人と社外を含む監査委員会の議論が深まることも期待できる。日本でも、まずは多くの関係者を含めた議論を始めてみるべきではないだろうか。